鳥追観音 如法時 仏都会津の西方浄土 命のふるさと 徳一大師開山千二百年 会津ころり三観音の一
トップ縁起と文化財徳一と歴史境内案内行事と拝観会津巡礼案内永代供養墓地図と交通お問い合わせ
奈良時代、天平八年(736)の春、僧行基が会津巡錫の折、野沢のとある農家に宿されました。僧行基は、子にも恵まれず、鳥獣害による不作の貧苦で悲歎に暮れる農夫を憐れみ、念持仏である一寸八分の聖観音のご尊像をお授けになられました。以来、ご霊験まことに著しく、観音様は自ら鳴子の綱をお引きになり鳥や獣を追わせられました。故に一家は子宝を授かり、豊作に恵まれ、幸福な人生を全うし、やがて観音様の導きにより、西方浄土・阿弥陀仏の世界に安楽往生が叶ったので、衆生は、この観音様を「鳥追観音」と尊称し、篤い信仰を集めました。

時代は移り、平安時代の大同二年(807)、徳一大師は、会津西方浄土の霊場を開かんと阿賀川の御身が淵(昔、鳥追観音が祀られていた地)を通られた時、鳥追観音の「これより南の山に七仏説法の霊場あり。そこへ我を勧請せよ。」とのお告げを頂き、南の山(現在地)に金剛山如法寺をご開創なされ、6月17日、ご本尊聖観世音菩薩の胎内に「鳥追観音」を入仏秘され、ご供養なされたと伝えます。故に、6月1ヶ月間、春の例大祭「若葉祭」を開催致し、ご本尊の特別御開帳を致しております。

当山如法寺が、「会津西方浄土」と称されるのは、鳥追観音の大慈悲により衆生を導いてこの世の寿命を全うさせ、やがてあの世は「西方浄土」へ安楽往生が叶うとのご誓願によります。そして、この道理を示す為に、観音堂は、東西向拝口・三方開きという独特な構造になっており、東口から入り、鳥追観音に祈願したら、戻らずに西口から出ると、その彼方が「西方浄土」の世界なのです。

また、身代りなで仏(金剛力士像)をなでで祈願すれば、ころりと大往生が叶うというので「ころり観音」とも尊称され、会津ころり三観音の一に数えられております。

徳一大師御開創以来、千二百年の歴史と法燈を今日に伝える、ご本尊鳥追聖観世音菩薩像をはじめ諸仏像、仁王門、観音堂などの建造物、仏具などの美術品に至るまで、数多くの重要文化財を所蔵し、更に雪国会津の厳しい自然の中で生き続ける、樹齢千二百年の高野槙(県指定天然記念物)が孤高に聳え立つ、≪会津西方浄土・鳥追観音如法寺≫こそ、私たちの≪命のふるさと≫であります。

山主合掌

 

(平安時代初期)木造 県重文

身代わりなで仏として信仰される。
 
  御本尊・聖観世音菩薩像 (平安時代初期) 木造 県重文  
  脇立・不動明王像 (鎌倉時代初期)木造 県重文  
  脇立・毘沙門天王像 (鎌倉時代初期)木造 県重文  
  金剛力士像 2体 (南北朝時代)木造  
  開山徳一大師像 (江戸時代)木造  

 

如法寺 鉄釣燈籠 銘、永禄7年(1564)5月17日、住頼貞代。国重文・奈良国立博物館蔵。(西会津町史より転載)


 
観音堂  江戸時代・慶長18年再建。東西向拝口・三方開きの特殊な構造。左甚五郎作、『隠れ三猿』『昇り龍、降り龍』『梅に鶯』の彫刻が有名。左光挙鑑定。県重文  
  仁王門 江戸時代・慶長18年再建。県重文  
  弁財天堂 江戸時代・延享2年建立。  

 

高野槙 東北最大・樹齢1200年。県天然記念物


句碑 『燭火や照らせたまへる白蓮華』 (江戸時代・享保12年、野沢郷頭五十嵐文五郎俊豊建立)  
  石造五輪塔 (江戸時代・明和元年、観音堂中興住職壽寶之墓、弟子應明建立。)  

トップページ
如法時 縁起と文化財
徳一大師と鳥追観音如法寺の歴史
境内案内

仏都会津巡礼のご案内
入檀、新墓地、永代供養合祀墓のご案内
地図と交通のご案内
お問い合わせ
リンク

樹齢1000年の高野槙